地方で見つけた、「無価値なもの」への眼差し
金沢にUターンして来た「兼業主夫」の所信表明・後半。一度出た故郷と“ヨリを戻す”ためのヒントになったのは、子どもたちの日常への眼差しでした。(前半はこちらから)
はじめて置いてかれそうになった日。 地方の良さは子どもの方が知っている
こんなことがありました。
東京の友人二人が、金沢に遊びに来てくれたときのこと。おふたりともギョーカイに通じたセンスのいいオシャレさん。
遠方より来てくれた以上、金沢の「文化チック」なところをちゃんとお連れしないと魅力を感じてもらえないだろうと少し気構えてコースをアレンジしました。
とはいえ、週末の家事育児を妻一人に押し付けるのも申し訳ないので、息子を連れ出して、おふたりを彼が通っていた保育園にお連れすることにしました。
保育園のヤギ。園児のアイドル。 保育園の環境は都会と全然違って、自然がいっぱいで、飼っているヤギも突進してきたりして、けっこう面白がられます。
息子も得意になって案内してます。
一通り見せて、そろそろ出発しようとしたとき、息子が「裏山にも行こう」といいだしました。
お店の予約もあるし、そんな時間はもうない。しかも、裏山に連れて行かれては都会のオシャレさんたちは面白くもなかろう。
それでも、ダダをこねます。「一緒に行こう」と友人の手を引っ張ります。
寛大な二人はついていってくれる。
大人にとっての「裏」山は子どもには「表」。 裏山は何の変哲もないどこにでもある雑木林。
友人の一人の手をぐいぐい引っ張って、上に登ろうと連れていきます。
ぼくは下で「早くしろ」と急き立てる役。おい空気読め。イライラします。
しばらくして、やっと戻ってきました。
友人に息子のワガママに付き合わせちゃってごめんね、と謝りました。
「面白かったですよ」と友人。
気を遣ってくれた言葉だと思いました。
「これ。」
スマホを取り出し、上でとった一枚の写真を見せてくれました。
意外にもそこに、見たことがない風景がありました。
眼下の住宅地の先に広がる加賀平野。さらにその先に日本海と広い空。
気持ち良さそうで、5分程度の登山でこの風景を拝めるのはお得感がある。行ってみたい。
後日、息子に連れていってもらうことにしました。
おれの庭だといわんばかり。 生い茂った草木をかきわけながら、踏み均されて道っぽくなったところを彼は軽快に、ズンズン上がっていきます。
「大丈夫なの?」といっても「大丈夫、大丈夫。早くおいで」と今度は彼が急かします。
こないだ友人が見せてくれたフォトスポットに到着。
「いいな〜!」とほめると、「まだ途中」という。
「こないだ、父ちゃんが怒るから、ここまでにしたんだよ。でも、ほんとのゴールはまだ先。」
「そうなの?」
今回はおとなしくついていくことにします。
途中にカマキリの卵があることを教えてくれます。
ゴールに到着。たしかに、標高が少し上がって、見晴らしがさらにいい。
半分以上が空で、目線の高さが水平線と同じ。
「ほんとのゴール」でみた風景。 「この風景を、見せたかったの?」と聞いたら「うん」という。
ぼくは反省しました。
彼はワガママを言っていたのではなくて、自分が知っている「一番いいところ」である裏山からの絶景をお客さんに見せようとしてくれているのでした。
そして、それはぼくがコーディネートしたところよりも価値があった。
金沢21世紀美術館もひがし茶屋街もいいけど、こういう場所は、住んでいないと見つけられない。
日常的なものの価値
地方の楽しみ方は、こういうことなのだと息子に教えてもらった気がします。
裏山は、全国どこにでもあります。でも、その何の変哲もないものに、価値を感じること。
黄昏のランデブー。 言い換えれば「日常的なもの」です。
都会を満喫していたとき、ぼくはどこかで「非日常的なこと」に憧れていました。
昨日の自分と今日の自分は違っていたくて、人生の選択肢は多いほうがよくて、
非日常を得るために日常を犠牲にしていたところがあった。
だから家事にも意味を見いだせず、やらなかった。
日に日に大きくなる背中。 ミラン・クンデラの『無意味の祝祭』(翻訳:西永良成)で、「無意味」について触れた一節があります。
死の病と闘うダルドロに、親友のラモンが声をかける場面。
「無意味を愛するすべを学ばなくてはならないということだよ。ここ、この公園のわれわれの眼前に、見てごらん、無意味はまったくあからさまに、無邪気に、素晴らしく存在しているじゃないか。そうこの素晴らしさだよ。(中略)子どもたちが笑っている・・・なぜかも知らずに、これは素晴らしいことじゃないか?なあ、ダルドロ、吸いこむんだよ、われわれを取り巻いているこの無意味をたっぷり吸いこむのだよ。」
ここでの「無意味」は、「日常」と近い気がします。
日常を愛するすべを学ばなくてはいけない。
家事をやるようになって、以前より日常が「眼前にある」と感じるようになりました。
家事は日常をたぐりよせて、生活を自らの手で整える行為なんだと気づきました。
自分の作った料理はたとえ不味くても、美味しい。
家事をやると、日常が妙に愛おしくなる。
小さい頃の記憶はやがて消える。大きくなっても思い出すきっかけになればと、がんばっておうちを建てた。 © Ookura Hideki / Kurome Photo Studio おうちの子どもスペース。小さな窓からはよく鳥がみえる。 子どもとの時間もそうです。
子どもたちは笑い声があるところに自然と集まります。裏山のように、大人が興味を示さない場所に面白さを見出し、遊び場に変えます。
日常の楽しみ方を教えてくれます。
そんな「無意味だと思い込んでいるものへの眼差し」を大事にすると、地方で生活がもっと楽しくなる。
そう思うようになりました。
ただ待つ。そんな時間が大半な気がする。 このまちを好きになれるか
「Uターンしてよかったですか?」という質問をされたとします。
ぼくは、「はい!」と即答します。いろいろ捨てた分、迷いも消えてスッキリしました。
日常を愛でることを学びました。
繰り返しになりますが、故郷を再び愛すことは、なるべく「日常的なもの」と向き合った先にある気がしています。
ひとつひとつは、文字にするときっとどこにでもある他愛のないことです。
ぼくにとって、この地で生きる現在の「real」な思いはそんなところです。
昔からある遊びは、やっぱり好きになる。 そんな視点から地方を満喫しようと、子どもたちとあちこちに出かけています。
渓流釣り/海水浴/虫/恐竜/アート/宇宙/歴史遺産/草むしり/動物園/美術館・図書館/雪山/キャンプ/サッカーにテニス/将棋大会/凧揚げなどなど。
そんな日常を通じて見つけた地方の魅力、それを少しずつ記録して、お伝えできればと思っています。